旗風の前話

長い夢を見ました。大海原に一人、わたくしが居るのです。島影は見えなく、周りは海と空だけが広がっています。ふっと、後ろを振り向くとわたくしとは違う方がいらっしゃいました。
わたくしと同じで、海の上に立ち、空を見上げています。見たこともない方達なのに、どうしてだか見知った顔に思えてしまう。不思議に思いながらも、何故だか安心をしていました。
そこでわたくしは目を覚まします。机に伏せて、眠ってしまっていたようです。まったく、はしたないです。幸運にも、お母様はまだ帰宅していないご様子。急いで顔についた涎を拭いて、宿題に手をつけます。

わたくしの家は、お父様、お母様。そして、お兄様、わたくしの四人家族。宿題が終わる頃には、お母様がお仕事から帰って来るので、そうなる前に夕食の準備です。女中の瑞希さんと、わたくしでお夕食を作ります。
お料理は大好きです。瑞希さんはいろんなことを教えてくれます。歳もそう遠くはなく、まるで姉のようにわたくしは慕っております。もちろん、瑞希さんはわたくしのことをお嬢様をお呼びになるのですが、二人きりになった時だけ、わたくしのことを旗風と呼ぶのです。

「終わりました」

急いで台所へ向かうと、お洗濯物を終えた瑞希さんがいらっしゃいました。

「お嬢様、宿題は終わりに?」
「はい、たった今終わりました。瑞希さんも、お洗濯を?」
「今日は天気がとても良い日でした。見ての通り、全て乾いていらっしゃいます。それでは、本日もお夕食作りと参りましょう」
「はい!」

わたくしはこの時が、大好きなのです。

「お嬢様、本日女学校ではどのようなことを?」
「はい、今日は国語の時間に……」

わたくしはこのように瑞希さんに学校でのお話を聞かせるのが日課でした。瑞希さんも勉強には、とてもご興味があるようで、どうせならば……わたくしと同じように女学校へ通えたら、どれほど楽しいものだろうかと思うほどでした。

「旗風、艦娘の授業はどのようなものなのでしょう?」
「そうですね……不思議なお勉強です。一見すると、数学なのですが、数学では解決出来ない所も多くあるとお耳にしています……まだ、わたくしにはぼんやりとしか想像出来かねますが、きっとお勉強をしていくにつれて艦娘とは何なのか分かってくるものだと思うのです」
「不思議なもの、ですね」
「はい」

艦娘。わたくしは、女学校へ入ってから、艦娘の授業を受けています。普通の女学校とは違い、授業構成が少しばかり違うのです……。
軍と密接でありながらも、女学校の皆さんは花嫁修行にいらっしゃっていると存じます。軍隊さんと結婚するためにいらっしゃる方も居るとか。
一方でわたくしは……きっと、家の指示に従うのだと存じています。お父様とお母様がお選びになった殿方。きっと、きっと……。

「旗風?」
「あ、すみません。あれ、わたくし……ぼうっとしていました」
「ふふ、疲れていらっしゃるのです。きっと、勉強のしすぎですね。お茶を淹れましょう」

瑞希さんは、気配りが上手です。わたくしも沢山見習いたい所があるのです。……憧れています。

「何を考えて?」
「結婚についてを……」
「まぁ。まだお嬢様にはお早いです。まだ、お勉強をしたいのでしょう?」
「はい……本を、まだ、沢山読めていません」
「旦那様も、それを分かっているものだと存じています。お嬢様、もう少しだけその気持は心の奥にしまい込みましょう?」
「……はいっ」

杞憂、でありました。瑞希さんの笑顔を見て、わたくしは安心するのでした。

お母様が帰宅してから、ご夕食。お父様は、本日帰宅することはございませんでした。本来なら、お母様は働く必要のないくらいお父様は稼ぎがあるのですが、お母様は気のお強いお方。なんでも、お仕事をなさっていないと落ち着かないとか。

「今日もお父様はお帰りにならないようなのですね」
「そうね……あの人は国会議員。いろいろとあるのよ」

そういうお母様の職業は記者。本日も配られた新聞の一文はお母様が書いたもの。一方でお父様は議員さん。そんな中で産まれたのがわたくし……そして、お兄様。
お兄様は軍人です。滅多に家に帰ることはありませんが、家にいらっしゃった時には、わたくしにとても優しくしてくれる方でした。読書が趣味で、わたくしが本に興味を持ったのはお兄様の影響です……今も、こうして手に持っている本はお兄様の私物。時折、お兄様はわたくしに本を送ってくれます。それが日々の楽しみでもあるのです。
お母様とのご夕食を終えた後、わたくしは日記を書いておやすみしました。

 

翌朝、支度をして学校へ向かいます。何の変哲もない日常でありましたが、どうやら女学校ではある女学生が転入し、その噂でいっぱいだとか。そんな噂が広がる中、授業を終えて、今日も一人で図書室にこもります。
わたくしは本が好き。本は素晴らしい、この小さな一冊の中に世界が詰まっています。まるで世界旅行のよう、未知の世界が広がり、それ故に浪漫でいっぱいに満たされるのです。
だから、わたくしは今日も図書室に足を運ぶのでした。

「今日は何を読みましょう」

わたくしには、特に仲の良いご学友はおりません。放課後になると、皆は家に帰って、着替えてからお買い物に行ったり、お勉強をしたりしているようです。図書室も、人気な所。本は女学生にとって、沢山の新鮮さを与えてくれるものです。もちろん、お友達というのは居たら居たで楽しいものでしょう。
しかし、わたくしはそれよりも本を読みたい。
強いて申し上げるとしたら、いつか、わたくしが読んだ本の感想をお話出来れば……それはきっと夢のような時間でしょう。

「……ピアノの音?」

図書室へ向かう途中に、音色が聞こえました。この女学校でピアノが弾ける人は沢山いらっしゃいます。わたくしも、嗜む程度なら弾くことが出来ます。幼少期に、お母様の勧めで習い事としていました。今でも時々、教会へ足を運んでは鍵盤を叩くこともあるんです。

ピアノは素晴らしいものです。
音楽とは、今手に持っている本とは違う世界を見せてくれます。目を閉じれば、音色に合わせて踊る子どもたち。時に美しく、時に残酷で、様々な表情を見せてくれます。

「……♪」

はしたなくも思いながらも、わたくしは鼻歌を歌いながら図書室へ向かうのでした。

少しばかり遅れを取ってしまったのでしょう、いつものスペースは三人に取られてしまいました。いつものスペースとは、窓から木々が見える位置で、本を読んでいる最中に疲れた目を癒やすのです。致し方ありません、わたくしは少しだけ離れた場所で読書を楽しむことにしましょう。
この時わたくしはもう少しだけ三人の様子をしっかりと見ておくべきだったのかもしれません。
本を読み進めていると、どうにもシリーズものだったが故に、前の巻の内容が気になり始めます。短編物とはいえ、少しだけ伏線が貼られているみたいでした。どうしても気になり、わたくしはそっと立ち上がり、前の巻が置かれている所に向かいます。
また気になっては困ると、少しだけ多めに本を持ち、戻ります。席につくと、また三人の様子が気になります。
うーん……どいてくれないでしょうか?などと思うのは傲慢でしょうか。お父様、お母様、どうかお許しください。わたくしの娯楽、故に傲慢に思うのを。どうか。

暫くすると、三人がその場所を離れました。好機だと思いましたが、本はまだ残っている模様。やはり、致し方ありません。わたくしも、ご一緒出来れば良いのですが……どうにもお声がけをするのは躊躇してしまいます。
以前に本が好きだと仰った女学生がいらっしゃいました。
わたくしは嬉しくなり、読んでいる本の感想を述べたのです。そうしたら、わたくしの顔を見るたびに、その女学生は笑うのです。一緒にいらっしゃいました、他の方もご一緒に。
それ以来わたくしは、感想を述べるということが罪なのだと認識しました。

……けれども、本当はもっと本を読みたい。

その昔、わたくしには慕っていたお姉さまがいらっしゃいました。わたくしと同じく、本を好む少女でした。わたくしのお兄様が持っている本を拝借しにいらっしゃったことがありました。
どうやら、その方のお母様と、わたくしのお母様がご友人のようで。わたくしも何度かお話をしたことがありました。その時に、わたくしとその方はお互いに読んだ本の感想を述べ合いました。
それはもう、至高の時間でありました。お互いに持つ、本に対しての解釈……登場人物の良し悪し、好み……セリフなどを読み上げて、演劇のような掛け合い。
出来ることなら、わたくしはもう一度だけあの時を過ごしたい……。

いいえ、それが罪なのです。故に、わたくしは一人で本を読む。

……寂しくなんか、ありません。

「ふぅ……」

この本もとても良きものでした。登場人物が独特で、少しだけ殿方のような少女、お淑やかな少女、巧みに物事を考える少女、そして帰国子女。この四人のやり取りが、どうにも面白おかしくて、ついつい時間を忘れてしまうほど読み老けてしまいました。沢山の感想が出てきます、わたくしが感想を述べる所は自身の日記だけです。
日記は自由に物事を述べる事ができます。誰にも邪魔されずに、思ったことを書ける、そして過去を振り返る時には優秀なものですから。わたくしという人物の人生を書き記しているもの。そう考えると、伝記のようなものだと思えてしまいます。

気持ちがいっぱいになった状態で、わたくしは本を返しに行きます。角際、どうにもここは見通しが悪く、気をつけなければ人とぶつかります。しかし、この時ばかりは私の気も緩んでおり、ぶつかっては持っていた本を床に広げてしまったのです。

「キャッ!ごめんなさい!」
「あ、いえ、こちらこそ……申し訳ございません。お怪我は?」
「いえ、大丈夫です……」

少しだけ悔やみながら、急いで本を拾い上げます。他の方も読む本を傷つけてしまいました、わたくしはとんでもないことを……本は大切にしなければなりません。そうでなければ、本の神様にきっと怒られてしまいます。本の神様を怒らせてしまいますと、もう本を読むことが出来なくなります……。
それは、とても困ります。
拾い上げて、埃を払うと、一緒にぶつかった女学生は拾い上げてくれました。その時、一瞬だったのに、わたくしにとってはとても長い時間だと勘違いするほど……。その女学生の顔を見てしまったのです。

「沢山本を読まれるのですね」
「は、はい……」

そう、わたくしはその方を存じ上げておりました。けれども、わたくしはその方がそこに居ることは存じ上げておりませんでした。どうしてこの女学校に居て、わたくしは今日まで知らなかったのでしょう、不思議でなりません。

「……? 貴女、どこかで」
「え、あ……し、失礼します」

思わず声をあげてしまいそうになります、けれどもわたくしは先程いらっしゃった三人の一人だと認識しておりました。
邪魔することは出来ません、なりません、そのようなことをしてはダメです……。わたくしは急いで、本を受け取って返しに行きます。
そうして、その足で図書室を後にしました。

いつもは本を一冊借りていくのですが、どうにもわたくしの頭の中はあの方でいっぱいになってしまっていたのです。
春姉さんは覚えていました。
どこかで?と言われて、はい、わたくしは旗風です。と、言えなかったのです。
いつからでしょう、わたくしに自信がなくなってしまったのは。
いつからでしょう、わたくしは貴女のことを思う夜が定期的にやってきたのは。
わたくしは、春姉さんに会いたかった。また、至高のひと時を味わいたかった。けれども、それを欲してはいけない、何故だかわたくしは、自分自身を縛っていたのです。

この胸を縛り付けるバラの棘がチクリと痛みながらも、わたくしは女学校を後にしたのです。道端ですれ違う方からすると、なんて暗い顔をしている女学生のでしょうとお思いになるかもしれません。春姉さんともっと早くお会いしとうございました。
わたくしは寂しかったのです。ご学友を欲することも、呪いを受けたかのように禁欲としていました。時に瑞希さんを心配させることもありました。
しかし、わたくしは、もうその時には遅かったのです。ご学友は既に集合体になってしまっているのです。
そう……春姉さんも。

だから、わたくしは遠くから眺めているだけで良いのです。きっと、それだけで……きっと、わたくしは幸せなのですから。

「うっ、う、ぐすっ……」

なのに、どうしてでしょう、目には涙が溜まり、次第には頬をつたって行くではありませんか。
わたくしは、どうしたいのか。

それはわたくし自身にも分からないのかもしれません。

 

翌日。放課後になると、いつものように図書室へ向かいます。
昨日のことを思い出して足を運ぶのを躊躇うこともありましたが、やはりわたくしはどうにも本を読まないと落ち着かない性格らしいのです。
そればかりは抗えず……。

「ほっ……」

図書室に、春姉さんはいらっしゃいませんでした。そうなれば、落ち着いて本に集中出来るでしょう。いつもの定位置に、木漏れ日が鮮やかに見える窓際。
……昨日、春姉さんが座っていらっしゃった所。
いけません、わたくしは何を考えているのでしょう。はしたない、はしたないです。
気を取り直して、本を開き、物語の中へと入り込むのでした。

 

「さて、大西先生。僕はどのようにして、彼女を手中に収めると思う?」
「知るか。あの子には、松風がいつも使っている手は通用しないだろう。と言うか、本当に彼女なのか」
「そうさ、彼女は間違いなく艦娘になる。これは、絶対なんだよ」
「何の根拠もねぇのに、どうしてそこまで自信持って言えるんだかな」

遠くから、誰かがいらっしゃいます。見たことのある方でした。こちらに向かってくるときは、わたくしに用事があるとは思いませんでした。
目鼻立ちが整い、少しだけ笑っている女学生は、わたくしにこう申し上げたのです。

「やぁ、君が旗風だね。君、僕達と一緒に艦娘にならないかい?」

 

わたくしの、物語は、この時……大きく変化をしてしまうのでした。